中国の若者に広がる「寝そべり族」
最近ネットやニュースで、躺平(Tangping)という中国語を目にすることが多くなった。
寝そべるという意味の「躺平」がいま中国で最新の流行語になっている。だらっと寝そべって、何も求めない。マンションも車も買わず、結婚もせず、消費もしない。最低限の生存レベルを維持し、他人の金儲けの道具や搾取される奴隷になることを拒絶する。それが「寝そべり」族。
中国の若者に広がる「寝そべり族」 向上心がなく消費もしない寝そべっているだけの人生
私が中国で生活していた際は、エリート中国人たちを中心に過酷な競争が繰り広げられていた。
有名大学に入るための高考(大学一斉入試)に向けた勉強。
企業に就職した後も、結果を出し上のポジションを狙うか、ジョブホッピングでより高いポジションや給与を実現することに精を出している人が多かった。
また同世代の友人たちは、自分たちの子供が過酷な社会で勝ち残るために、有名な幼稚園に入れ、毎日何かしらの習い事をさせている。
確かに幼い頃から圧力をかけられ、また周り(親)から過度な期待を一方的にかけられると、息苦しくなり逃げ出したくなるのが普通かもしれない。
また都市部を中心に生活レベルが向上し、他人と競争して頑張らなくても生活ができるようになったともいえる。
「寝そべり族」は、単に寝ているだけではない?
私が『寝そべり族』に興味を持ったのは、単に自分の人生を諦めた自暴自棄・ニヒリズム(虚無主義的)な状態ではないという点だ。
ずっと遊んでいることが間違っているとは思わない。ストレスは周囲の人と自分を比較することと昔からの伝統的観念からくるもので、それらはいつでもあらわれる。(途中省略)
中国の若者に広がる「寝そべり族」 向上心がなく消費もしない寝そべっているだけの人生
これまでは人の主体性を重視する考え方が存在しなかった。ならば私は自分で自分の考え方を作り出す。寝そべることは私の賢者の行動で、寝そべっているときだけが、人間が万物の尺度たりえるのだ。
哲学者や思想家の様にも見えるが、他人から搾取されることから逃げているだけで、自分の想い(実現したい夢、ビジョン)がないようにも感じる。
一番大切なのは、寝そべりながら何をするのかだろう。
坂口安吾が『堕落論』で述べた、自分自身を発見できるかが重要である。
徹底的に堕落して、自分自身をみつけよ
坂口安吾が堕落論を発表したのは、戦後すぐの1946年4月でした。
堕落論では、以下の文章で締めくくられています。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。(省略)
坂口安吾『堕落論』
人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。
コロナ禍は堕落して自分を探すチャンス
同じ価値観(考え)を持つとしても、『自ら考え抜いて築いた価値観』と『他人から借りてきた価値観』では全く異なるのです。
他人から借りてきた価値観だと、その価値観が壊れた際に路頭に迷ってしまう。
またその結果不幸な状態に陥ってしまった際には、他人のせいにして逃げだすことが多い。
新しい考え方や価値観がバズワードとして、企業やマスコミ、SNSなど至る所で溢れている。
外部からの情報が氾濫している現代、どうしても流行りの価値観や考えに流されがちです。
- 『サステイナブル(持続可能)』という考え方は、地球で生きる我々の義務です。
一方で社会的圧力から仕方なく取り組んだり、ファッションの一部として取り入れているように見えるケースもあります。 - 『幸福(Well-Being)』について考えることは、人間だからこそできる大切なことです。
本来幸福に対する考え方は人それぞれですが、幸福の定義や実現方法を自分の外に求める傾向もみうけられます。
これらを本当の意味で自分の価値観に取り込むためにも、立ち止まって考えることが大切です。
全てを諦めただ寝そべって過ごすのではなく、また既成の制度や規範に縛られて生きるのでもない。
目の前の現実に対して疑問を持って向き合い、自分で徹底して考える。
そのような思考のなかから、自分が形成されていくのです。
- 自分にとっての幸せとは?(幸福観)
- 人生を通して成し遂げたいことは? (人生観)
- 何のために働くのか?(仕事観)
- どのような人生の最期を迎えたいのか?(死生観、終末観)
- ・・・
コロナ禍で自粛が求められている今、堕落して(世間やSNSと距離を置き)考える機会を持つことが大切でしょう。