「またやりたい」は、どこから生まれるのか
~「周りにどう評価される?」から「私はどうしたい?」へ~ 

できなかったのに、「またやりたい」

「来年は絶対、最後までゴールする!」
肝試しを終えて体育館に戻ったとき、娘がそう言いました。 娘は仲のいい友達と二人で途中まで進んだものの、怖くなってリタイアしました。ゴールできなかったのです。それなのに、「もうやりたくない」ではなく、「来年は最後まで行きたい」と言った。

前回のブログを書きながら、私はこの言葉がずっと気になっていました。私たちはよく、子どもに自信をつけてもらうためには、「できた」という成功体験を積むことが大切だと言います。もちろん、それは大切なことだと思います。できなかったことが、できるようになる。頑張ったことが結果につながる。そんな経験が、「自分にもできる」という感覚につながり、次の一歩を後押ししてくれる。

でも――。できたから、「またやりたい」と思うのでしょうか。 娘は、できませんでした。水鉄砲合戦で大将を務めた男の子も、最後まで逃げ続けたものの、最後は撃たれて負けました。ダンボールハウスでも、賞をもらった子もいれば、もらわなかった子もいました。それでも毎年参加している子どもたちがたくさんいます。

「またやりたい」は、「できた」の先にだけ、あるわけではない。
では、どこから生まれるのでしょうか。

そして、もう一つ。

子どもの頃には、あんなにたくさんあったはずの、「やってみたい」、「もう一回やりたい」という気持ちを、私たちはいつから失っていくのでしょうか。

 

「やってみたい」の前に現れる声

子どもたちを見ていると、ときどき驚かされます。「そんなことできるの?」と大人なら考えてしまうようなことでも、とりあえずやってみる。うまくいかなければ、別の方法を試す。それでもダメなら、いつの間にか別の遊びを始めている。もちろん、子どもだって失敗を怖がることはあります。 人からどう見られるかを気にすることもあるでしょう。それでも、そんな子どもたちを見ながら、ふと考えました。

いつから私たちは、「やってみたい」よりも「どう評価されるか」を先に考えるようになるのでしょうか。

私たちは成長する中で、たくさんの言葉を受け取ります。「そんなのできないよ」、「もっとちゃんとやりなさい」、「こっちの方がいいんじゃない?」。もちろん、その多くは悪意から出た言葉ではありません。親なら、子どもに失敗してほしくない。先生なら、できるようになってほしい。上司なら、仕事で成果を出してほしい。だから教える。間違えないように先回りする。うまくできれば褒める。そうした関わりの中で、いつしか、こんな問いも生まれてくるのかもしれません。

「これをやったら、褒めてもらえるかな?」
「先生は喜んでくれるかな?」
「お父さん、お母さんは喜んでくれるかな?」
誰かに喜んでもらいたいと思うこと自体は、決して悪いことではありません。誰かに認めてもらうことが力になることもあります。
でも、もし、「私は何をしたい?」よりも、「どうすれば評価される?」がいつも先に来るようになったら、どうでしょう。
大人になれば、「上司はどう評価するだろう?」、「失敗したら評価が下がるのでは?」という問いになることもあるでしょう。

そして、ここでもう一つ考えたいことがあります。
最初は、他人の声だったはずなのです。
「そんなの無理だよ」
「失敗しない方がいい」
「こっちをやった方が評価される」
でも、そうした声を何度も聞き、その中で行動することを繰り返しているうちに、他人の言葉は、気づけば自分の内なる声になっていく。
「やってみたい」そう思った瞬間に、「でも、失敗するかもしれない」、「自分には向いていないかもしれない」、「どうせ無理なんじゃないか」と、自分で自分に言うようになる。

植松努さんは、TEDxの講演で「どうせ無理」という言葉について語っています。人から自信や可能性を奪ってしまう言葉。でも、人の可能性を閉じるのが他者の言葉なら、その逆もあるはずです。
他者の言葉や関わりは、人の可能性を閉じることも、開くこともできる。
では、

人の「やってみたい」を閉じるのではなく、開いていく関わりとは、どんなものなのでしょうか。

もう一度、お泊まり会で見た子どもたちの姿に戻ってみます。

  

評価することと、見守ること

水鉄砲合戦で、大将を務めた男の子がいました。大将が撃たれれば、そのチームは負け。仲間たちが次々と撃たれていく中、その子は一人になっても校庭を逃げ続けました。でも最後は追いつかれ、撃たれてしまいました。結果だけを見れば、負けです。その子が戻ってきたとき、おやじの会のKさんが声をかけました。
「最後まであきらめずに逃げて、かっこよかった。」
すると、その子は少し誇らしげな表情で、仲間のところへ戻っていきました。Kさんは、「負けた」という結果をなかったことにしたわけではありません。ただ「よく頑張ったね」と褒めたわけでもない。その子が実際にやっていたことを見て、それを言葉にして返した。
そこに私は、評価とは少し違うものを感じました。私たちは日常の中で、たくさんの評価をしています。
学校なら、テストの点数や成績。
スポーツなら、勝敗や順位。
会社なら、目標達成率や人事評価。

評価そのものが悪いわけではありません。どこまでできたのかを確認したり、ときには優劣をつけたりすることが必要な場面もあります。ただ、何のためにその人を見るのか。ここには大きな違いがあるように思います。
優劣や達成度を判断するために見る。
それとは別に、その人が目指していることに向かって前へ進むために、一緒に経験を振り返る。

私は、後者を「フィードバック」と考えています。フィードバックでは、良かったところだけを見るわけではありません。うまくいかなかったことも見る。問題があれば、それも伝える。でも、「できなかった。だからダメ」ではなく、「何をしようとしていたんだろう」、「どこまではできたんだろう」、「何がうまくいかなかったんだろう」、「次はどうしてみたいんだろう」と、本人が目指しているものを中心に、一緒に現在地を見る。

評価は、結果や達成度を判断するために見る。
フィードバックは、目指すところに向けて進むために一緒に見る。

そんな違いなのかもしれません。
翌朝のダンボールハウスの表彰でも、似たことが起きていました。
レンガを一つずつ丁寧に描いた家。
床を高くして、通気性や振動まで考えた家。
弟が中に入ると、家ごとコロコロと動き出す「コロコロハウス」。
そこには、大学生賞やグランプリといった「評価」もありました。でも、子どもたちへのインタビューで聞かれていたのは、「どうしてこうしたの?」、「ここはどうやって作ったの?」、「じゃあ、どうやって家に入って住むのか、見せてくれる?」、ということでした。

結果だけではなく、その子が何を考え、何をやったのかに関心を向ける。
受賞したかどうかとは別に、自分の工夫を誰かが面白がってくれる。自分がやったことを、誰かが見てくれている。こうした経験も、「またやりたい」につながっているのではないでしょうか。

だからといって、「子どもはたくさん褒めればいい」ということでもないように思います。
「すごいね」
「えらいね」
「よくできたね」
そう言われることは、もちろん嬉しい。でも、それが自分の行動を決める一番の基準になったらどうでしょう。大切なのは、「褒めるか、叱るか」という二択ではない。
その人を、評価される対象としてだけ見るのか。
それとも、自分なりの意思を持ち、試行錯誤しながら前へ進もうとしている一人の人として見るのか。
その違いなのではないでしょうか。

「正解かな?」、「評価されるかな?」と、問われ続ければ、やがて誰にも言われなくても、
「これは評価されるだろうか?」と、自分で自分を評価するようになる。

反対に、
「あなたはどうしたい?」、「やってみてどうだった?」、「次はどうしてみたい?」と、問いかけられる経験を重ねれば、
いつか他者がいなくても、
「私はどうしたい?」「次はどうしてみよう?」と、自分自身に問いかけられるようになるのかもしれません。
他人の言葉は、自分を評価する声にもなれば、自分と対話する声にもなる。

 

「できる」と「やりたい」は違う

ここまで考えていて、以前書いたブログを思い出しました。2021年に書いた『モチベーションは上がったり下がったり!?』という記事です。当時、私は「自己効力感」について書きました。自己効力感とは、簡単に言えば、「自分ならできそうだ」と思える感覚です。
何かをやってみて、できた。
自分と似た人ができているのを見た。
誰かから「あなたならできる」と言われた。
そうした経験によって「自分にもできるかもしれない」という感覚が育ち、次の行動を後押しする。
この考え方は、今でも大切だと思っています。

でも今回、子どもたちを見ながら、少し違うことも考えるようになりました。
「できる」と思えれば、人は本当に動くのでしょうか。
「できるけれど、やりたくない」ことはいくらでもあります。
反対に、「できるかどうか分からないけれど、やってみたい」と思うこともあります。
娘は一度、肝試しを途中でリタイアしました。それでも、「来年は絶対、最後までゴールする!」と言った。「できる」よりも先に、「やりたい」があった。

5年前のブログで、私は、内発的な動機は自分の考えや想いが起点になるため、最後は自分自身で火をつけなければならない、という趣旨のことを書きました。今でも、火をつけるのは本人だと思います。誰かが代わりに、「これをやりたい」と思ってあげることはできません。

でも今回のお泊まり会を振り返りながら、もう一つの問いが浮かびました。
その火は、本当に一人でつけるものなのだろうか。
ダンボールが用意されている。
自由に作っていいと言われる。
隣では友達が何かを作っている。
困ったときには手を貸してくれる人がいる。
作ったものを面白がってくれる人がいる。
肝試しでは、参加するかどうかも自分で決められ、途中でやめてもいい。
水鉄砲では、負けても、最後まで逃げ続けた姿を見てくれている人がいる。
子どもたちの「やってみたい」は、本人の内側だけで生まれていたわけではありません。人との関係や、その場にあるものに触れることで、自分の中にあった何かが動き出していた。そんなふうにも見えました。

心理学の「自己決定理論」では、人が自ら動いていくために大切なものとして、「自分で選べる」という自律性、「自分にもできる、働きかけられる」という有能感、そして「人とつながり、受け止められている」という関係性の三つが挙げられています。この三つを知ったとき、私はお泊まり会の光景を思い出しました。
自分で選べる。
やってみることで、できることが増える。
そして、一緒にやる仲間や、見てくれている人がいる。

前回のブログで私は、「一人ひとり違う。でも、みんな夢中だった。」と書きました。その「夢中」の背景には、こうしたものもあったのかもしれません。そう考えると、5年前に自分が書いた「自分で火をつける」という言葉が、少し違って見えてきます。

自分で火をつけることと、一人で火をつけることは、同じではない。

誰かが代わりに火をつけることはできない。でも、火がつきやすいように薪を置くことはできる。風から守ることもできる。そばで一緒に火を囲むこともできる。
反対に、せっかくつきかけた火に、「どうせ無理」という水をかけることもできる。

火をつけるのは本人。
でも、火がつくための薪や空気をつくるのは、本人だけではない。

「自ら動く」というと、どうしても本人の問題として考えてしまいます。でも、その「自分で」の前には、どんな人と出会い、どんな言葉を受け取り、どんな場に身を置いてきたのか。 という、たくさんの「他者」がいる。そう考えると、「自律」という言葉の意味も、少し違って見えてきます。

 

自律とは、一人で立つことなのか

「自律」という言葉を聞くと、どんな人を思い浮かべるでしょうか。
自分で考えられる人。
人に言われなくても行動できる人。
誰かに頼らず、自分で判断できる人。
会社でも、
「もっと主体的に動いてほしい」
「自律型人材を育てたい」、 という言葉をよく耳にします。
私自身、仕事の中で何度も使ってきた言葉です。でも今回、子どもたちの姿を見ながら、少し不思議に感じるようになりました。

自律するということは、本当に、他者を必要としなくなることなのでしょうか。

お泊まり会の子どもたちは、自分たちで動いていました。でも、一人でやっていたわけではありません。
友達がいる。
おやじの会の大人たちがいる。
ボランティアの大学生や、卒業した中学生たちもいる。
誰かと一緒に遊び、
誰かに見てもらい、
ときには助けてもらい、
ときには自分が誰かを助ける。

たくさんの人と関わりながら、自分で動いていた。
考えてみれば、「自律」と「孤立」はまったく違うものです。

お泊まり会の記事を公開した後、おやじの会のKさんから、こんな言葉をいただきました。
「出来た、出来ない、より本人がやりたいと思うか。意欲を育てるって、子どもも、会社員の育成も同根な気がします。」

学校の先生からも、
「おやじの会が目指しているものと、私が教師として目指したい学校や子どもの姿が同じ方向にあると感じた」
と伝えていただきました。

学校と、おやじの会。一方は「学び」の場で、一方は「遊び」の場です。でも、その根底にあるものは、意外と近いのかもしれません。 誰かに言われたからやるのではなく、自分で考え、人と関わり、試してみる。そして、「またやりたい」と思う。

もう一つ、とても印象に残った言葉があります。
朝の校庭開放を続け、お泊まり会にも参加していたAさんからいただいた言葉です。
「子どもを産む前は仕事をして、誰かの役には立っていたはずなのに、どこで生きているのか、いまひとつ実感がなかった。
でも、この地域に移り住み、子育てやPTAを通して人と関わるようになり、
ようやくこの地域で生きていると感じられています。」と話してくれました。

人との関係から離れることで、自分らしくなったわけではない。
人と出会い、一緒に何かをし、誰かの役に立ち、誰かから何かを受け取る。

人とのつながりの中で、自分がここにいるという実感が生まれている。
子どもだけではありません。大人だって、人との関係の中で自分を見つけているのかもしれません。

そう考えると、会社でよく使われる「自律型人材」という言葉も、少し違って見えてきます。
「自分で考えて」
「もっと主体的に」
「指示を待たずに動いて」
「もっと挑戦して」
もちろん、どれも間違ったことではありません。
でも、「自律しなさい」と言われて、自律する。
少し不思議な話です。

「もっと主体的に」と求める前に、「あなたはどうしたい?」と問いかけているでしょうか。
やってみたいと言ったとき、「どうせ無理」ではなく、「どうしたらできるだろう」と一緒に考えているでしょうか。

うまくいかなかったとき、「できなかった」という結果だけで終わらせず、「何をしようとしたのか」、「何が分かったのか」、「次はどうしてみたいのか」を一緒に振り返っているでしょうか。

そうした他者との対話を繰り返すうちに、「あなたはどうしたい?」という誰かの声が、いつしか、
「私はどうしたい?」という自分の声になっていく。

「次はどうしてみたい?」という誰かの問いが、「次はどうしてみよう?」という自分への問いになっていく。

他者との良い対話が、やがて自分との良い対話になっていく。

そう考えると、自律とは、一人で何でもできるようになることではないのかもしれません。
自律とは、他者との関係の中で、自分がどうしたいのかを問い、自分なりに選び、自ら動いていけること。
そして、人を「自律させる」のではなく、人が自律していける関係や場をつくる。私たち周囲の人間にできるのは、そんなことなのかもしれません。

 

「またやりたい」を育てる

前回のブログの最後に、私はこう書きました。
「またやりたい」と思えることを、自分で見つけ夢中になれる。
その積み重ねこそが、人が動き続ける力なのかもしれません。

今回、その「またやりたい」はどこから生まれるのだろう、と考えてきました。
「できた」という経験。
「自分にもできそうだ」という感覚。
自分で選べること。
誰かと一緒にいること。
自分がやったことを、誰かが見てくれていること。

きっと、どれか一つではないのでしょう。ただ、一つ感じることがあります。
「やりたい」は、自分の中から生まれる。でも、自分一人だけで育つものではない。
誰かの言葉によって、小さくなることもある。 誰かの言葉によって、大きくなることもある。

そして、その言葉はいつしか、自分自身の声になっていく。
「どうせ無理。」になることもあれば、「ちょっとやってみよう。」になることもある。

「来年は絶対、最後までゴールする!」
肝試しを終えて体育館に戻ったとき、娘がそう言いました。できなかった。でも、「またやりたい」は残っていました。
もしかすると、大切なのは、失敗しないことではなく、失敗しても「またやりたい」が残ること。 なのかもしれません。

子どもの頃には、あんなにたくさんあったはずの「またやりたい」を、私たちは、いつから失ってしまうのでしょうか。
そして、人との関わりの中で、それを失わずに育てていくことはできるのでしょうか。