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登り続けているのに、満たされないのはなぜか
仕事で成果を出す。
役割を果たす。
評価される。
それ自体は悪いことではない。
むしろ必要なことだと思う。
それでもどこかで、「このままでいいのか」という違和感が残ることがある。
登り続けているはずなのに、なぜか満たされない。
そんな感覚に、覚えがある人も多いのではないだろうか。
『登る生き方』と『降りる生き方』
先日、『降りてゆく生き方』の上映会とダイアローグの会に参加した。
この映画は、お金や効率、成功を追い求める『登る生き方』に対して、人や自然、関係性、心地よさといったものを大切にする『降りる生き方』を対比的に描いている。
ただ、この二項対立をそのまま受け取ると、少し危ういとも感じた。
登ることが悪で、降りることが善、という単純な話ではない。
現実はそんなにきれいではない。
私自身も、そう簡単に降りられているわけではない。
自分では、意味のある仕事を選んできたつもりだった。
それでも、気づけば成果や役割に縛られている自分もいる。
『降りること』は、きれいな話ではない
対話の中で、ある参加者の言葉が印象に残っている。
降りたいと思っても、
経済面や生活環境を考えると、簡単には降りられない人も多い
確かにの通りだと思う。
降りるという選択は、誰にでも同じように開かれているわけではない。
そこには、収入や責任、家族、社会との関係といった現実がある。
むしろ、降りるためには、ある種の『余裕』が必要なのかもしれない。
だからこそ、降りることは決してきれいな話ではない。
不安や迷いとセットで存在している。
それでも、なぜ私たちは登り続けるのか
では、なぜ私たちは違和感を抱えながらも登り続けるのか。
一つは、登ることが『分かりやすい』からだと思う。
成果や評価は見えやすく、比較もできる。
そこには一応の『正解』があるように感じられる。
一方で、降りることには正解がない。
何を大切にするのか、自分で決めなければならない。
だからこそ不安になる。
そしてもう一つは、そもそも自分で選んでいない可能性があるということだ。
気づいたらこのレールに乗っていて、いつから登っているのか分からない。
そのこと自体に、あまり疑問を持ってこなかったのかもしれない。
『自分を守る』ということ
今回のダイアローグで大切にされていたのは、『自分を守らずに語る』という姿勢だった。
ただ、これは簡単なことではない。
私たちは普段、無意識のうちに自分を守っている。
正しく見られたい、評価されたい、弱さを見せたくない。
その結果、知らず知らずのうちに、『登るための言葉』を選んでいる。
この状態のままでは、いくら対話をしても、本質には触れられない。
だからこそこの場では、整理された結論ではなく、揺らぎや違和感そのものを持ち寄ることが求められていた。
『問い』はどこから生まれるのか
イベント後、主催者の森田さんとのやり取りの中で、印象的な言葉があった。
イベントをきっかけに、問い続けられるかどうかが重要
この一言に、この場の本質が表れているように感じた。
さらに印象に残ったのは、『問い』がどこから生まれるのか、という話だ。
経営者や上司から与えられる問いなのか。
それとも当事者から立ち上がる問いなのか。
この違いは決定的に大きい。
与えられた問いは、正解を探す行為になりやすい。
一方で、自分から生まれた問いは、思考そのものを動かし続ける。
なぜ理念やパーパスは機能しないのか
この話は、企業の現場にもそのまま当てはまる。
多くの企業で理念やパーパスが掲げられているが、それが現場で機能しているケースは決して多くない。
なぜか。
本来は思考の起点であるはずの言葉が、いつの間にか『ルール』になってしまうからだ。
守るべきものになった瞬間に、それは問いではなくなり、思考を止めるものになる。
そしてもう一つの問題は、そもそも個人の側に『自分の拠り所』がないことだと思う。
自分は何を大切にしたいのか。
何に心地よさを感じるのか。
そこが曖昧なままでは、どんなに立派な理念も、自分ごとにはならない。
『降りる』を実践している人たち
映画のもととなっているが、脚本を考えるために行った200人以上へのインタビューである。
関連書籍から、いくつかの話を紹介する。
例えば『べてるの家』。
統合失調症を抱える人たちが共同生活を送りながら、自分たちの弱さや生きづらさをそのまま言葉にし、対話を重ねながら生きている場だ。
そこでは、『治すこと』や『正しくなること』よりも、自分の状態をそのまま共有し、関係性の中で生きていくことが大切にされている。
言い換えれば、『自分を守らずに語る』ことが前提になっている。
参考書籍:降りていく生き方 「べてるの家」が歩む、もうひとつの道
もう一つは、酒蔵・寺田本家の取り組みだ。
自然栽培の米と微生物の力を活かし、酒を『つくる』のではなく、『生まれる』のを待つ。
人がすべてをコントロールするのではなく、自然の流れに委ねる。
効率とは対極にある営みだが、だからこそ生まれる価値がある。
こうした在り方に触れるほどに、
なぜ自分たちの日常では、それが実現できないのかという問いが残る。
ちなみにこの映画でも酒蔵での酒造りシーンがたくさん出てくるのですが、その撮影は私も以前見学させていただいた新潟駅近くの今代司酒造ということを後から知った。こういったことにも、ご縁を感じるから不思議である。
https://web.archive.org/web/20110905043524/http://www.nippon-p.org/wm-kura-1.html
『降りる』ということの本質
ここまで考えてきて感じたのは、『降りる』というのは環境を変えることではなく、
自分の基準をどこに置くか、ということなのだと思う。
すべてを降りることはできない。
現実には、登り続けなければいけない場面もある。
だからこそ問いはこう変わる。
自分は何において登り、何において降りるのか。
何を守りたいのか。
その選択は、誰かが決めてくれるものではない。
最後に
今回の対話を通して、いくつかの問いが残っている。
その生き方は、本当に自分で選んだものなのか。
『降りたい』と思いながら、登り続けていないか。
自分の問いは、自分から生まれているのか。
そしてもう一つ。
我々が普段使っている言葉は、
『本音』だろうか、それとも『正解』だろうか。
もし今、少しでも違和感があるのだとしたら、
その違和感は、本当に消していいものなのだろうか。
