1964年の東京オリンピック
1964年の東京オリンピックの頃、日本は自立しようと一生懸命だったのでしょうね。
私は地方の公団住宅に暮らす小学生、もはや戦後ではないと言われ、各家庭にテレビは行き渡っていました。
ただオリンピックを見るためにカラーテレビを購入する家は、まだまだ少なかったように思います。
しかし、私を含め小学生には弱者という感覚はなかった。
五感を研ぎ澄ますための自由があったように思います。
蝉取りに走り回ったり川でフナと格闘したりと、子供の一日の中で自然が占める割合が大きかったのです。
寛容さがなくなる世界
アメリカは日本の20〜30年先を走っています。
そのアメリカを見ていると、弱者が痛めつけられる社会に急激にシフトしてきているように感じます。
弱者の権利はどんどん剥奪される。
寛容さなんて皆んな忘れちゃってる。
アメリカに盲従する日本も早晩そうなるでしょう。
だとすると、最大の弱者で被害者は子供です。私のような図々しい高齢者じゃない。
「世間」が拘束する日本
日本は社会に代わって「世間」が人を拘束しています。
世間は社会と違って視野の狭いタコツボの中のルール(感情)で動く。
どういった「社会」であるべきか、どういった社会で暮らしたいかをデザインしていく個人の発想が欠落しているのです。
人生の主人公として運転席にいるのは自分じゃないですか。
これからの世界では、個人が独立していないということは致命傷であり、残念ながら、それが今の日本の根本問題なのです。
未来への期待
明治維新に立ち返って考え直すべき時です。
明治の文明開化でハード面は近代化しました。
しかしソフト面、すなわち精神の近代化は棚上げされた。
それが昭和の戦争の内的要因にもつながったと思います。
300万人も戦死者を出した敗戦にもかかわらず、精神の問題(人間関係)を棚上げしたままアメリカ依存の戦後復興(≒ 高度成長)、バブル崩壊、それに続く失われた30年を経て、昨年からのパンデミックに至っています。
明治維新、敗戦、東日本大地震、新型コロナウィルスによるパンデミック。
まだこのまま上滑りを続けるのか?
若い人には高齢者の意見は最小限にして、自分たちの未来を自ら運転席に座って考えてもらいたい。