夏目漱石の学習院大学での講演録『私の個人主義』は、漱石の幸福論でもあります。
漱石は留学先の英国で自己本位を手に入れて強くなりました。
私はたいして中味はないし形式も守ったわけではありませんが、十代の頃に漱石の『私の個人主義』(写真)を手に入れたために、高齢者の仲間入りをするまで牢屋に入ることもなく幸せに暮らすことができました。
パンデミックの今でこそ全ての若い人に読んでもらいたいと思います。
青空文庫からも、無料で読むことができます。
2009年にブログにUPしたものを少し修正しました。
最初に公開した後に、東日本大震災が発生しました。
そして今回の新型コロナウィルスによるパンデミックです。
明治維新や昭和の敗戦に匹敵するような大転換点だと思います。
民主主義国家の個人と社会
民主主義国家では、個人(in-dividual)が自由に意見を表明でき、さらにそれが集まると社会(society)が形成されます。
ただ自由に意見を言うといっても、それが自分勝手な要望ばかりでは困ります。
西欧では何百年もかけて試行錯誤しながら個人を基盤とする社会を形成してきました。
日本では自由というのは少しばかり悪いことのようなニュアンスでとられている感があります。
それは、「自由」と「自分勝手」や「我がまま」がゴチャまぜになっているからでしょう。
そして、個人がベースに社会が形成されるのではなく、世間の中に個人があり、個人は世間に合わせて調整を強いられる。
調整できない人は村八分となります。
他者への依存が基本の日本社会(世間)
ビジネスの世界でも「イニシアチブ」や「リーダーシップ」は、はっきりしたビジョンがないと、個人の利益誘導ととられても仕方ありません。
「個人が勝手なことをやりみんなの和を乱す」と考えられているのかも知れません。
それとも、日本人は「自由でいることの責任の重さ」を十分理解していて「自由じゃないこと(他者への依存)」を選んでいるのかもしれません。
漱石が言いたかったこと
夏目漱石の「私の個人主義」は、漱石がこれから社会に出ていく学習院の学生に対して大正三年に行った講演です。
明治の文豪は本当に偉大ですね。
漱石はスピイチの中で「ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もないし、権力を使う価値もないし、また金力を使う価値もない」と言っています。
「自由とその背後にある義務という観念が必要なこと」にも言及しています。
漱石がこれから社会に出ていく学習院の学生に対し語ったこれらのことは、そっくりそのまま現代の日本人に対しても適応できるのではないでしょうか?
個人主義とは?
漱石は大正時代に「日本の国の変化の中で大切なのは、変化に対応できる個人主義だ」と言っています。
今の日本は、漱石の時代とは違って、国家と自分の関係を考えるにはあまりにも平和すぎるのかも知れません。
自由とは責任を伴うものです。
日本人は、自分から自由を捨てることで責任も放棄してしまったのでしょうか?
お互いの自由を尊重しあい、ルール至上主義でなく、社会の基本(個人)をもう一度考えることから始めたらどうかと思います。
そうでなければ、多様性も人権も非常に薄っぺらな議論に終わってしまいます。
個人主義を手に入れるには?
福沢諭吉の「学問のすすめ」の最終編である十七編は、人望に関することです。
諭吉は「人間交際」(ソーシャル)が大事で、人望を得るには実学を含む様々な修養を積めと言っているかのようです。
私は、夏目漱石が言う自由であることに必要な倫理観も、人との関わりを通して身につくものだと思います。
もっと人や社会と関わりを持ち、そうした経験から自然と倫理観を持てるようになれるといい。
パンデミックの時、若い人たちの覚醒を望みます。