自由より調和を求める日本人 
~自由を楽しむには“アイ”が必要~

目次

最近の気になる言葉

最近色々な場面で聞く、『自由』という言葉が気になっています。

  1. 経営者が自社の幹部に対して話したこと>
    あなた達は各組織のトップなんだから、もっと自分の考えや想いを全面に出して、自由に事業を進める気概を持って欲しい。私(社長)の顔色をうかがうのではなく、リーダー個人の意思として組織の方針を持たないと、責任感や推進する意志も高まらない。
  2. 企業理念を検討するワークショップでの参加者の発言
    私は自分たちの事業活動を通して、自由な社会の実現に寄与することを理念に掲げたい。社会課題から生じる様々な制約から解放するだけでなく、自分が望むことを誰もが行える社会にしたい。
  3. 社内での雑談のなかでのKさんの発言>
    自由っていうのは、多くの選択肢を持てているということ。選択肢を持つためには、広い視野や柔軟な思考がないと難しい。一方選択(決断)した瞬間に、選択肢がなくなり自由でもなくなるんじゃないかな。

頻繁に『自由』という言葉を耳にしたり目にしたりします。自由とはどういうことか、改めて考えてみたいと思います。

 

自由という言葉の定義

ある言葉を考える時には、先ず言葉の定義を確認することが大切です。本当は辞書を引くのがいいのでしょうが、面倒くさがりの私はネットのWikiから始めます。

自由とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいう。哲学用語。自由な行動により生じた結果は本人が引き受けるべきという社会通念があり、自由と責任は併せて語られる事が多い。

Wikiより

外部(経営者や社会課題)からの制限や影響を受けず、自分の意思に従っているというのは、最初に共有した色々な人の発言とも一致します。また自由な行動による結果は、当人が責任を負うというのも経営者の発言と重なります。

 

日本における自由という言葉の歴史

言葉としては理解できるのですが、しっくりとこない何かを感じます。そこで先ほど調べたWikiを使って自由という言葉の歴史についても見てみることにしました。

中国では本来、「自由」は、好き勝手や自由気ままという意味で用いられた。日本も当初は、二条河原の落書の「自由出家」や「自由狼藉」のように、中国と同じ用法で用いられていた。 福沢諭吉がリバティを訳するに際して、仏教用語より「自由」を選んだ。

Wikiより

福沢諭吉先生がLibertyという言葉を西洋事情のなかで『自由』と訳しており、仏教用語からとったと述べられています。今度は、仏教用語としての自由を調べてみました。

自由の「由」は<よる><もとづく>という意であるから他に由らず、独立して、自存すること、即ち<自らにもとづく><自らによる>ことが“自由”である。晩年のブッダは、弟子達に「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」と教えられた。

大谷大学 生活の中の仏教用語より

明治時代以前は『自由』とは我儘や好き勝手というネガティブな意味合いで使われることが多かったようですが、明治時代にLibertyという言葉の訳として『自由』を福沢諭吉先生が使い始めてから『自らにもとづく、自らを拠り所とする』という自己の意味合いが持たれるようになったのです。つまり本当の意味での自由を持つ(実現する)ためには、自分(私=I(アイ))が大前提にあるのだなと思いました。

自由という言葉の歴史を追ってみることにより、日本における意味の変化、そして何となく日本で本当の意味での自由が浸透していない理由が見えてきたようにも感じました。

 

自由な状況に緊張する日本人

日本人と自由という私の問題意識に対して、『なるほど!』と腑に落ちた記事をネットで見つけました。それは、内田樹氏のインタビュー記事でした。

日本人にとって、気が楽になるとか、心持ちが落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。だって、そんなの大変そうだから。それよりは、ほっとしたい、気楽でいたい。(中略)

 ヨーロッパの街でびっくりさせられるのは夏の終りの少し肌寒い日に「もう」毛皮のコートを着ている人と、「まだ」半袖半ズボンの人が並んで歩いている風景を見ることです。彼らは自分の身体感覚に従って何を着るか決めている。他人が何を着ようと気にしない。その「周りを気にしない」様子を見ると、「ああ、これが自由というものなんだな。日本人にはないなあ」と思います。 もちろん、日本にも「周りを気にしない様子」をする人はいますけれど、そういう人は「周りを気にしないオレってすごい」「オレは凡人じゃないんだぜ」ということをうるさくアピールしてくる。自由であるべき時にすでに肩肘張っている。それは周りが半袖でも、「オレは寒いから」と毛皮を着ている人の「自由」とは質が違います。(中略)

たぶん彼らが求めているのは、ある種の「調和」なんだと思います。「調和」と「自由」とはまったく別物です。そして、日本人は「調和」のうちに安らぐことを、ヨーロッパ人が「自由」のうちに安らぐことを求めるのと同じくらい切実に求めているのであって、それはそれで一つの「種族の文化」だと思っているのです。

自由の(再)定義 内田 樹

内田氏の『自分の思い通りのことを実践する(=自由)のは望んでいない、だって大変だもん。それよりはほっとしたい、気楽にいたい』という言葉は、多くの日本人の本音だと思いました。また同調圧力が強い日本において、心から周りを気にしないというのは難しい気もします。

 

上司、経営者が言った通りに仕事をしている方が、面倒なことを考えなくてもいいですし、責任は指示をした上司や経営者にあるので気楽です。また親や先生が言った通りに勉強したり、学校に進学する方が、同様に気楽なのかもしれません。

それでも私は自分の人生は自分で選択して決める、その結果は自分で受け入れる。その前提で、自分が本当にやりたいこと(勉強や仕事)を考え見つけながら、生きていきたいなと思いました。そしてそのような自由な人生を楽しめるだけの逞しさを身に着けたい。

自分の子供にも、自由を楽しめるような人間になって欲しいなと願っています。