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『甘え』が強まってきた息子
今年息子が年長さんになり、来年度からは小学生に上がります。子供の成長は早いですね。そんな息子には一人でやってもらえるように、少しずつ挑戦してもらっています。そんな変化を察してか、最近息子の甘えたがりが強まってきているように感じています。自律を志す私としては、悩ましい状況が続いていました。
そんななか社内で雑談している時に、土居健郎氏の『甘えの構造』が話題に挙がりました。息子の甘えに悩む私にはぴったりだと思い、この本を手に取ってみました。この本は甘えという日本独特の言葉※を起点に、思考や人との関り方など日本人の特徴を明晰に分析されていました。今回はこの本を取り上げて、日本人の特徴について考えたいと思います。
※英語では甘えという言葉は一般的ではありませんが、中国語では『撒娇(sajiao)』という言葉がります。
『甘え』と『甘やかし』の違い
息子が私や妻に甘える行為に対して、ネガティブな印象を持っていました。自分でやるのではなく、相手にやってもらうという依存に繋がる行動のように捉えていたからです。これは私が『甘え』と『甘やかし』や『甘ったれ』を混同していたからでした。
今や「甘え」といえば人々は一方的な「甘やかし」かひとりよがりの「甘ったれ」のことしか考えなくなったのだ。(中略)
甘えの構造(土居健郎)
「甘え」は親しい二者関係を前提とするとのべた。一方が相手は自分に対し好意を持っていることがわかっていて、それにふさわしく振舞うことが「甘える」ことなのである。(中略)
「甘やかし」と「甘ったれ」の場合は(中略)二者間における好意の有無が前提とはなっていないのだ。有無ではなく、むしろ好意があると思わせたいかもしくはそう思いたいという意図があって、その結果として相手に「甘える」振りをさせることが「甘やかし」であり、または反対に自ら「甘える」振りをしてみせることが「甘ったれ」なのである。(中略)
「甘やかし」と「甘ったれ」は本来の「甘え」に似て非なるものと言わねばならぬ。
また土居氏は『親しい二者関係が近年急速に失われつつあるため、本来の『甘え』に対する理解が急速に失われている』と述べています。日本全体においても、甘えに対する誤解が蔓延しているのでしょう。
甘えは人間関係構築に必要なコミュニケーション
『甘える』ことの意義について、土居氏は以下のように述べていました。
甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することが出来るのである。(中略)
甘えの構造(土居健郎)
甘えなくしてはそもそも母子関係の成立が不可能であり、(中略)さらに成人した後も、新たに人間関係が結ばれる際には少なくともその端緒において必ず甘えが発動しているといえる。その意味で甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割を果たしていることになる。
相手に対して信頼感や一体感を持つことが出来るからこそ、『甘える』という行為が自然と生じているのだと理解しなおすことが出来ました。また私のことを信頼してくれているからこそ、私に甘えてくれているのだと少しポジティブに捉えることができました。また自分の行動を思い返して、信頼できる仲間や上司、妻や親に対して今も甘えている自分がいることに気づきました。少し前に流行った『心理的安全性』も、甘えられる環境を提供することでもあるのかなと思いました。
甘えが行き過ぎると依存に陥る
一方で自分を持たずに過剰に甘えることは、相手に依存することに繋がるので注意が必要です。甘えるという行為は無自覚に行われるので、バランスをとることも難しいのでしょう。そのため親や上司など甘える環境を提供する側が、自分に依存されないようにしなければなりません。また相手に好意がないのに、あるように見せかけて相手を『甘やかす』行為は、相手が自分に依存するように仕向ける意図が隠れている場合もあるので危険です。
内と外で態度を変える日本人
また土居氏は甘えや遠慮の対象範囲を起点に日本人の人間関係の捉え方を、『内と外』という区別で解説しています。
日本人の大半にとって、このように内と外によって態度を変えることは当然なことと考えられているので、身内にわがままをいい、外では自制することを誰しも偽善とか矛盾とは考えない。また普通は自制する人間が、見知らぬ土地に行って多少破目をはずしたとしても、それほど人々は怪しまないであろう。内と外によって自分の行動の規範が異なることは、何ら内的葛藤の材料とはならないのである。
甘えの構造(土居健郎)
日本人が捉える内と外の世界(甘えの構造の内容を図化)
昔と比べ親子や夫婦、親戚、上司と部下の関係が希薄になり、本心から身内と感じられる甘える関係が減少しています。更に社会における人間関係も希薄になることで、知人の対象も減り、内の世界が狭まっています。また他人に対する無関心さが更に強まり、自制が働かない範囲が広がるにつれ、目を疑うような事件や中傷が増えているのです。このように置かれている状況が変わっているにも関わらず、内と外で行動規範を使い分ける行動様式を続けていることが、日本人の誠実さや公正さを低下させることにもつながっているのでしょう。
パブリックの精神とは?
『旅の恥は掻き捨て』という諺も、知り合いがいない環境で良心が働き辛い日本人の特性を戒めています。これは自分の属する集団以外を自分たちと同等に扱わないという意識の現われとも捉えられます。これと反対の意識に、『パブリックの精神』があります。
パブリックの精神とは自分の集団に属していない人たちに対しても自分の集団のメンバーに対するのと同じような顧慮を払うことであるとするならば、そしてそれこそが公正の真の意味であるとするならば、確かに日本人はその点において不足していよう。
甘えの構造(土居健郎)
甘えられる(信頼できる)身内だと思える関係を拡げ強めると共に、外(他人)に対する認識を公(パブリック)と捉え直し関心を持つことにより自制を働かせる対象とする。これが出来れば日本人の昔ながらの特徴を活かすことで、自分と他人が良いバランスで幸せに暮らせるようになるのではと考えました。
自分から変わり、子供や部下に対する接し方も変える。一歩ずつでも、まずは自分から変わりたいなと改めて思いました。